「ジレンマ」という言葉があります。
意味を調べてみると、
ジレンマ、ディレンマ (ギリシア語: δί-λημμα、英語: dilemma) とは、
ある問題に対して2つの選択肢が存在し、そのどちらを選んでも何らかの不利益があり、態度を決めかねる状態。
人生、生きていれば、その時々、大なり小なり多くのジレンマを抱えながら生きているものですが、
今のコロナ禍、日本社会全体が、こんな " ジレンマ " の中にいるように思うのです。
「国民総ジレンマ」のような。
大きく言えば、「感染拡大防止」と「経済を回す」ことの司令塔なき混迷とか、
国と都道府県のニュアンスの違いや、感染防止と GoToのねじれとか、
そういった迷走のような状態が、一層、個々のジレンマを大きくしているようにも感じます。
そんなジレンマとは、その状態が長く続き過ぎると、その不安定さから、時に、人から、自分らしさとか優しさといった心や、判断力を失わせ、発想や行動がどこか偏っていき極端になっていくこともあるのだそうです。
まっ、俗に言う苛立ちってやつでしょうか。
今、話題の帰省のこと。
帰省する側が、帰省したとしても帰省を取りやめたとしても、そのどちらにも何とも言われぬモヤモヤ感が残ります。
また、田舎で帰省する人たちを迎える側にとっても、迎え入れたとしても、それを遠慮してもらったとしても、心の中には釈然としないモヤモヤしたものが残ります。
正に、ジレンマであります。
行動だけを見れば、「帰省する」「帰省しない」という二つ。
ですが、同じ「帰省する」の中の、
「どう?」と「なぜ?」が、とても大切なように思うのです。
例えば、感染が広がっている地域に住んでいる方が帰省しようとした場合、
a. 別にコロナなんてどうでもいいや…と、他人のことなどどうでもよく、普段から何の対策もせず、お気楽に過ごしているような人が、さっ、いつものお盆だから田舎で楽しんでこよう!と帰省する。
(今のご時世、こんな方がいらっしゃるとは思えませんが、もしかしたらいらっしゃるのかもしれません。)
方や、
b. コロナから自他を守ろうと、普段から我慢や努力をしている人が、お盆を前に更に細心の注意を払い、田舎で帰りを待ちわびている親や家族のために、意を決して帰省する。
(今回帰省する人たちの大半が、こうではないかと思います。)
帰省を迎える側として、
正直、aのような人には、今回は遠慮してもらいたいと思います。
ですが、
bのような方を、どうして、批判したり、排他的な態度を露わにできましょうか。
昨日、青森県で、東京から帰省した人のお宅に辛辣なメモが投げ入れられたというニュースを目にしました。
とても悲しい気持ちになると同時に、コロナ感染が世界的に広がり始めた頃、アメリカで、アジア人がアジア人だという理由だけで突然暴行を受けたというニュースが思い出されたのです。
方や、東京から来たということだけで、
方や、アジア人だということだけで。
今回の出来事も、大分前のアメリカでの出来事も、
心に巣食う意識は、同じ。
日本全国、「自他を守りたい」という気持ちは、皆同じ。
そんな中、帰省する側も、迎え入れる側も、
人として、互いに最大限の配慮をし合う、そんなお盆であってくれたら…と願います。
お盆とは、心静かに、穏やかな心で、ご先祖様に向き合う時です。