昨日8/6は、
75年前に広島に原爆が投下された日。
子どもの頃、教科書やドキュメンタリー映画等で、この国に、広島に起こされた悲惨な出来事については、知識として「頭」ではわかっておりました。
ですが、国内での悲劇とはいえ、遠くで起きた出来事という意識からかどこか他人事のようになってしまっており、残念ながら、その事実をリアルなものとして捉えることができていなかったように思います。
今年2月、ご縁を頂き「広島平和記念資料館」を訪れたこと、そして、自身の東日本大震災の体験から、これまでの「知識だけ」のものから、僅かながら事実のその奥の方を垣間見ることができたように思うのです。
それは、「人の命」ということ。
私たちは、日々、家族との小さな幸せを紡いでいます。その営みは悲喜交々であり、決して楽しいことばかりではありません。
また、家族とは、普通にそこに居ることがあたりまえ過ぎて、その存在すら改めて意識することもなくなっていきます。
ですが、一たび、家族や大切な人を突然失うという現実を突きつけられた時、人はその存在の大きさに改めて気づき、深い悲しみに包まれ、その後の人生は、後悔と大きな喪失感に苛まれていく。
広島の原爆で犠牲となった方々は14万人とも16万人とも言われていますが、14万人亡くなったというよりは、そこには、14万通り、いや、もっとそれ以上の悲しみや苦悩が存在したという風に感じるようになったのです。
そしてまた、そんな悲しい記憶は、その出来事がたとえ世の中から忘れ去られそうになったとしても、自分の中では決して消えることのない記憶に。
「原爆の日」とは、
戦争を考え平和を願う日。
人の命を考える日。
家族や大切な人を考える日。
そして、
どう生きるかを考える日。
なのかもしれません。
(つぶやき)
「人の命」や「家族」のこと、これは、自然災害でも同様です。悲劇は決して繰り返してはならないように思うのです。
ベイルートでの爆発事故の映像、とてもショッキングなものでありました。爆発の凄さにも驚きましたが、あのエリアに住む多くの人たちの被害のことがとても気になるのです。大混乱の中、病院だってパニック。医者だって医薬品だって病床だって足りないはず。大丈夫だろうか…と。戦争でも自然災害でもコロナでも何でもそう、行き着くところは、人です。