大阪・附属池田小児童殺傷事件から今日で22年。
朝の情報番組で、そんなニュースを目にしました。
事件当時、
学校現場に勤めていた身としてとてもショッキングな事件でありましたが、
犠牲となったのは、小1と小2の子たち合わせて8人だったということや、
「だから、鎮魂の鐘は8つなのか…」と、
今更ながら知った事実もありました。
いたいけな小さな子たちの命、そして、その未来を奪い、
親や家族を悲しみのどん底に突き落とした一人の大人の蛮行。
きっとその瞬間、
その子たちはとてつもない恐怖に怯え泣き叫んでいただろうな…と、
改めて、その蛮行に怒りが湧いてきます。
と同時に、
番組で取り上げていた学校での学校安全(侵入者想定)の取り組みを見ながら、
何とも言えぬ悲しく切ない感情も湧き出し、込み上げるものがありました。
その番組の論調として、
「学校がどう取り組むか」という視点で構成されておりましたが、
そもそも学校とは、開かれた場所であり、
それは田舎であればある程、地域に開かれ、地域と共にある存在。
そして、学校とは、
どの子も自由に伸び伸びと自分を表現し高めていく場所であるはずなのに、
「今の学校はここまでしなければらないのか…」と、
悲しいと言いますか切ないと言いますか、そんな感情も湧き出してきたのです。
勿論、子どもたちの安全を守ることは大事です。
ですが、このような事案が起きれば、
「さぁ、学校はどう対処する?」といったような、
そんな対症療法的な視点ばかりではなく、
このような大人を生み出さない社会とは?
このような大人を野放しにしない社会とは?
このような大人をきっちりとサポートし続ける社会とは?といったような
「大人社会の在りよう」を真剣に考えていく視点も、
必要不可欠ではないのかと、そんなことも思うのです。
子どもが大人の犠牲になっていく社会であってはならない。
TVに映し出された学校での「不審者訓練」の際、
教室の隅に隠れ、カーテンの陰に隠れ、
侵入者役の先生の迫真の演技の声や物音に、
どこか怯えたような表情を見せる小さな子の瞳が忘れられないのです。
この瞳が、
何とも悲しく切ない気持ちにさせるのです。
そもそも、学校とは、
こういうことをしなければならない場所ではないはずなのにと。
今更ながらですが、
8人の子のご冥福を心から祈ります。