今日の気分は、
「考えて、考えて」な気分。
午前中は青空も広がっておりましたが、昼過ぎから雲が出てきた陸前高田市であります。
今日の一日、昨日からの引き続きで、ずっと考えてばかりの一日でありました。
そんな中、「不登校の子」に、
どう接していいのかわからないまま、ただただ家庭訪問を繰り返していた二十代、
「あること」をきっかけに、これまでの自分の指導がガラガラと崩れ、子どもへの接し方が大きく変わっていった三十代、
と、自分の教員時代のことが思い出されましたし、
その中で出会った、多くの子どもたちの顔もまた思い出されたのです。
自分がどう頑張ってもなかなか登校に至らず、時に、「なんで?」と、声を荒げたことも、正直、ありました。
その子の部屋の「開かずのドア」の前で、毎日毎日声をかけてはトボトボ帰る。そんなことを繰り返していたある日、ちょっと開いたドアに、何とも言われぬ大きな喜びを感じたことも。
前日に交わした「約束」も、何十回、待ちぼうけをくわされたことか。けれど、たった一度の「守ってくれた約束」に、お母さんと共に喜び合ったことも。
「登校刺激」を与えない方がよいと言われた時代があったり、「登校刺激」は与えた方がよいと言われた時代もあったり、「一体どっちなんだ!?」と、焦燥感一杯の自分もそこにはいたり。
不登校の子どもが多かった時代、翌年度の校内人事(校内の役割)を決める際、無謀にも、全ての係を外してもらい、全校の「不登校担当」に志願したことも。
これ全て、「力のない自分で、本当にごめんなさい。」の思いと共にです。
ただ、こんな非力な自分でも、一つだけ言えることは、
「決して諦めなかった」、ということ。
諦めなかったものは、
「自分自身の気持ち」と、「その子の可能性」。
退職をした今、自分にできること。
お節介にならず、押し売りにならず、無理強いをせず、
もし、寄り添わせてもらえるのであれば…と、それだけなのです。
「不登校」に限らず、
誰かが心の傍に居ることで、
心のエネルギーが増すかもしれませんしね。
子どもでも大人でも。
(つぶやき)
「あること」とは、三十代の中頃、筑波大学(茗荷谷にある東京校舎)で「心理学」を学ぶ機会を得たこと。当初、「学校現場を知らない大学教授に何がわかる?」と、少々斜に構えた自分でありましたが、「心理学」とは恐るべし。。何から何まで納得であり、それまでの「自分の指導」がガラガラと音を立てて崩れるような感覚を覚えたのです。この体験が、その後の自分を大きく変えたようにも…。「知」には、「経験知」と「形式知」があるとか。とかく教員は(自分も含めて)、「経験知」に頼りがちでありますが、そのどちらも大切なように思うのです。(子どもたちのためにです。)