今日の気分は、
どこか「厳かな」気分。
今日も青空の広がる陸前高田市であります。
昨日のタイヤ交換ブログで、「おれが、おれが…」とか「自分がしてやったんだ」的なことを書きましたが、そんなことを書いていたら、その「真逆のこと」って何だろう?と、そんなことを思ってしまったのであります。
もしかしたら、昨日まで来日していた、「フランシスコ・ローマ教皇」のような価値観、生き方、生き様なのかなぁ…と、漠然と想像したりもします。
TVのニュース映像に映し出される教皇のお姿、眼差しや言葉に、どこか慈愛に満ちたオーラのようなものを感じ、そこに居てくれるだけで大きな安心感に包まれるといいますか、穏やかな気持ちになれるといいますか、とっても不思議、且つ、大きくも深い「存在感」を感じてしまいます。(あっ、私はクリスチャンではありませんよ)
それは、凄さとか威圧されるという類のものではなく、あたかも、ぬくぬくふかふかの真綿で包まれるような感覚。
そんなオーラをもつ教皇様から自らの言葉として伝えられる、「平和」や「公正で人間的な行動」や「誠実」は、大きな説得力を持ち、心の深い所に沁み入ってくるのであります。それは、自分の中に「?マーク」を付けて。
自分は、「平和(身近な小さな平和も含めて)を考えているか?」「公正で人間的に生きているか?」「誠実に生きているか?」という具合にです。
ある意味、穴があったら入りたい気持ちにもなってしまいます。
と、そんなことを考えていたら、私が若かりし頃、ヨーロッパを旅した際に出会った、あるマリア像のことが思い出されたのであります。
それは、私が三十代の後半のこと、ベルギーのゲントという町の教会を訪ねた時の出来事。
その教会の中を歩いていると、奥に一体のマリア像があり、観光気分で何気に見上げた瞬間、その場を動けなくなってしまったのであります。そして、暫し、いや、かなり長い時間、ずっとそこに佇み、見つめ続けておりました。
その時の自分の心の中を正確には思い出せませんが、きっと、自分は優しくできてるか?とか、我欲に包まれてはいないか?とか、誠実に生きているか?という類のことを自問自答していたように思います。
一体の像を見てのこんな体験、後にも先にも、これっきりなのであります。
そんなマリア像のことを思い出していたら、これまた私が若かりし頃に出会った「何もできない魔法使い」という短編の物語を思い出したのであります。
これはある意味、自分のその後の人生(教員としても人としてもです)に大きな影響を与えてくれた短編。
この物語は、「風の交響楽」(光原百合 : パウロ会)という本の中の一編で、その内容を簡単に紹介すれば、「人に寄り添うとはどういうことなんだろう?」ということを、それぞれの魔法使いの生き様から考えさせるというもの。
できるできないは別として、こんな「何もできない魔法使い」のような生き方ができたらいいなぁ…と、その日から今日まで歩んできたようにも思います。折しもその時代、全国的に「不登校」の子どもたちが激増していた時代でもありましたしね。
あららっ…、ごめんなさい。
本日は、一つの出来事からどんどん繋がっていく、まるで「連想ゲーム」のようでありますね。^^
けれど、不思議と今日は、いつもの自分に似合わず、心どこか厳かなのであります。
(つぶやき)
「何もできない魔法使い」の書き出しはこんな感じでありその一部を紹介しますね。
※昔、何もできない魔法使いがいた。偉い魔法使いたちから見れば、取るに足らない存在だった。 ・・・・中略・・・・。
あるところに 憎しみに心を囚われた人がいた。
偉い魔法使いは弟子たちに命じて、全てを忘れるという言い伝えのある魔法の木の実を見つけさせた。別の魔法使いは、相手に憎しみをぶつける呪いの方法を教えた。
何もできない魔法使いは、何もできなかったので、じっとその人の傍にいて、憎しみの底にある心の傷を聞いて、一緒に涙を流した。
やがて、ほほえみの戻ったその人を見て、偉い魔法使いたちは、自分の術が効いたのだとけんかを始めた。
その人は、一緒に泣いてくれた人を探したけれど、何もできなかった魔法使いは、自分を恥じてもう姿を消していた。
あるところに、病気の子どもがいた。 ・・・・後略・・・・。※
と、短いエピソードがいくつか書かれてあるこんな物語であったように思います。
こう在りたいと思いつつも、時に、感情に流されてしまう、人間私であります…。